昨年の今頃も1つの人生の区切りを迎えて色々と思うところがあったような。
(参考:911と今の自分と)
そして、今日でまた1つの区切り。
こうして生かされていることに感謝すると共に、今一度私のターニングポイントを振り返ってみたいと思います。
10年前、死ぬかもしれないと怯えていた
私は今から10年前に高分化扁平上皮癌という病気を何の前触れもなく発症しました。
最初は舌に口内炎のようなものができたので、おかしな位置にできたなぁと思いつつも自然に治癒するだろうと放っておきました。
ところが2週間ほど経っても一向に治る気配はなく、アルバイト先の社員の方から「早く病院に行け!」と強く言われたので渋々翌日に近所にある市立病院へ。
よほど病状が分かりやすいからだったのか、その場ですぐには診断されずに、次回病理検査をすることと、親を連れてくるようにとだけ言われました。
翌週だったと思うのですが、母と一緒に再び診察室へ。
私はまだ子を持つ身ではありませんのでハッキリとは実感できませんが、診断が下った時、おそらく私よりも母の方がショックを受けていたはずでしょう。
診断されてからしばらくは通常通りの生活をできていましたし、家族や当時付き合っていた人、そして友人達の支えもあって精神的には落ち着いていました。
それが一変したのは手術の直前。
当時の日記にこう書き残しています。
手術の説明をされた。思っていたより大きく切除するらしい。正直言うと、怖い。きっと手術が終わったころには、俺の舌は原型とは全く違う形になっている。体の隅々にまで行き渡った神経や細胞が、そこでは一切が断ち切られる。そのせいで、今までのように話すことも、食べることもできなくなる。おそらく誰もが当たり前に享受しているものが、実にあっさりと消えて失くなる。その消失感は、計り知れない。その代償も。
どうして、この若さでこんな体験をしなければならない?
でも、生きたい。やり残したことがいくつもある。今死ぬわけにはいかないから、だから、この苦しみに耐えて、きっと耐え続けていかなければいけないのだろう。
言うまでもありませんが、手術は成功しました。
(たまたまその日の担当だった執刀医の方が舌ができるだけ元通り機能するように患部を切除してくれたのです。他の執刀医の方は出血を抑えるために舌が2度と動かないくらいガチガチに固定するつもりだったとか・・・。)
未熟な自分に罰が当たったと思っていた
当時、私は埼玉県にある大学の3年生。
サークル活動にばかり力を入れ授業は「自主休講」と称して欠席することが頻繁にありました。
そんなことを1年次から続けていたので、当然のことながら取得していた単位数はせいぜい40ほど。
その割には学科の中でも5指に入る厳しいゼミに入り、3年次に必須の「ゼミ論」というものに年末年始あたりから悩まされていました。
私の選んだテーマが珍妙だったこともあって全く筆が進まず、情けないことにノルマである10,000字の1割も書けていませんでした。
その結果、4年次への進級を待たずしてそのゼミを破門されました。
また、プライベートも実に無責任な振る舞いをしており、周囲に迷惑をかけることが度々ありました。
そうした現状をどこまで自覚できていたのかは今となっては思い出せませんが、少なくとも私の病気の原因はそうした積み重ねにあると思い込むくらいには反省しました。
特にゼミに関しては、私のスペックは他の学生と比べて見劣りしていたにも関わらず熱意があったから採ってもらえたのだそうです。
ゼミの先生だけでなく、面接官をしていたゼミの先輩たちの期待を完膚なきまでに裏切っていたのです。
そのために病気になったのだとしても、今の私ですら何ら不思議なことだとは感じません。
復学してもがく日々
手術後、1ヶ月程母方の祖父母の家で療養してから埼玉に戻り復学。
ゼミを破門になってしまったので受け入れてくれるゼミを探しながら授業を受け始めました。
入院を境に、気持ちを入れ替えて大学の授業には全て出席するようになりました。
(普通の学生になっただけのことですが。)
スムーズに元の生活に戻れたのは、他でもない周囲の友人達がサポートしてくれたからでしょう。
本当に感謝してもし足りないくらいです。
ただ1点だけ、授業の内容に興味がないことだけはどうしようもありませんでした。
私が所属していたのは英語学科だったのですが、英文学やら英文法の授業が必修。
ところが私の興味はその頃から国際協力や国際関係でしたので、講師の話が全く頭に届いていませんでした。
その一方で、私の残りの人生がどれくらい残されているのかということを気にするようになっていました。
特に生活習慣が酷かったわけではなかったのに癌になったのです。
そんな私の身体がいつまでも保つと過信出来るほど私は楽観的ではありません。
残り少ない時間で自分の興味がないことに労力を割いていいのか?
今思えば、この考え方が私の現在の行動原理となっています。
退路は断ってから前に進む
ちょうど10年前の今頃でしょうか。
所属していたサークルの企画で53名という大所帯でカンボジアにスタディツアーから帰ってきてすぐに大学に退学届を提出しました。
学生課では事情を訊かれたので正直に話したところ、保険の意味で学籍は結果が出るまで残しておいた方が良いと引き留められましたが逃げ道をなくすために断りました。
23歳フリーターが誕生しました。
3度目の受験勉強を経て再び大学生に
私のワガママで大学を辞めてしまったわけですから、次の大学選びには慎重になりました。
条件は、1.奨学金が全額支給されること。 2.実家から通えること、そして当然私が最も学びたいことを学べることでした。
その条件を全て満たしたのが八王子にある大学。
周囲の友人たちの中には不可能だと考えていた人もいたようですが、結果は無事に奨学金付きの特待生としての合格でした。
23歳にして1年生からやり直しなので周囲からは相当浮いていたはずですが、「類は友を呼ぶ」という諺は真理のようで、幸いにして私の周囲には似たような友人が集まりました。
そのおかげでサークルには入らないと決めた2度目の大学生活でしたが思いの外充実したものになりました。
当時からの友人には改めて感謝の言葉を贈りたいと思います。
また、私には今度こそしくじりたくない事がありました。
ゼミです。
3年次に留学のため一時的に抜けてしまったのですが、ゼミでは常にプレゼンスを発揮できるように全力を尽くしてきました。
恩師に恵まれたこともあって懸賞論文で受賞することもありました。
4年間の総体性として卒論を提出できた時には、前の大学からの記憶が蘇りその場に泣き崩れてしまいました・・・。
(卒論出して泣き崩れる他より4つほど年上の学生って周りから見たら相当異様でしたでしょうね(笑)。)
ゼミ以外でも先生に恵まれたおかげで、今でも時折アドバイスをいただきます。
期待に応えるためにも今後も精進していく所存です。
そして今、「10回目」の誕生日
2度目の大学を卒業してからも紆余曲折の人生でしたが、今日こうして無事に「10回目」の誕生日を迎えることができました。
30を越えたあたりからは年齢を重ねることは嬉しいことではなくなっていましたが、あの頃から「10回目」だと思うと気が引き締まるようにも感じます。
ここまで生かしてくれて本当にありがとうございます。
それと母へ。
大学を入り直したりとか、度々病院の世話になったりとか、自立したと思ったら帰ってきたりとか、迷惑をかけてばかりで本当にごめんなさい。
あと3年だけ、どうか目を瞑っていてくれると助かります。
それからは親孝行できると思います。
大切な友人達へ。
いつもいつも私のとんでもない言動や振る舞いで迷惑をかけてばかりでごめんなさい。
これからも末永いお付き合いをしてもらえると本当に嬉しいです。
それから最初の大学のゼミの恩師へ。
ゼミを追い出すという選択は当然ですし、そのことについて私は反論するつもりはありません。
ただ、3年後に私の納得のいく結果を出せたらご挨拶に伺いますので、その際には破門を解いてくれませんか?
さて、一区切りついたことだし、残りの活動に全力投球しつつ、大学院留学の準備も進めるぞ!!
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4年間の総体性として卒論を提出できた時には、前の大学からの記憶が蘇りその場に泣き崩れてしまいました・・・。
返信削除ふーん。
ちなみに卒論遅れて提出したにも拘わらず、何らかの賞がとれて、貴方の何人かの同級生が「賞を取り下げようと事務室に訴えようか」考えていた人がいた事は忘れないでね。
あ、もしかして同窓生の方ですか?
削除主語が抜けているので理解しづらい文章なのですが、卒論を遅れて提出したというのは私のことではありませんよね?私は締切までに提出しましたし。
そもそも卒論なんてどこの大学も締切過ぎたら受理してもらえませんよ。
>貴方の何人かの同級生が「賞を取り下げようと事務室に訴えようか」考えていた人がいた
訴えりゃよかったじゃないですかww
そんな腰の引けた連中のことなんか気にもしませんし、忘れますってww
ていうかあなたのコメントで初めてそんなことがあったことを知ったくらいですしwww
仮に、あなたが指している卒論を遅れて提出したのに受賞したというのが私のことなのであれば、私だってそんな賞はいりませんよ。そんなセコイことをしてまで賞なんて受け取りたくありませんし、そもそも佳作ですしw