正直、最初は全く期待していなかったのが、ものの見事に予想を裏切られた。
結論から書こう。
拓殖大学の現役学生、卒業生は皆この本を読むべきだ。
拓殖大学は国際開発人材の育成所だった
拓殖大学の起源は台湾の植民地経営を円滑に行うことができる人材を育成するための台湾協会学校にある。
その台湾経営の土台を築いた、第三代学長の後藤新平は「生物学的植民地経営論」の中で一国の発展を植物の生育に例えた。
それはつまり、日本の規範や制度をそのまま適応させるのではなく、対象となる土地に合わせてローカライズさせて適応させないと上手くいかないということだ。
これは現在の国際開発の現場でもそのまま通用する考え方だ。
また、台湾協会学校当時には学生は誓約書のようなものを提出する義務があったそうだ。
そこには卒業後は長期に渡って台湾での業務に従事することが明記させられていたらしい。
なんというユニークな学校だろうか。
歴史を注意深く見ることの必要性
本著の中で渡辺利夫先生が仰っているように、たしかに私たちが義務教育で学ぶ日本の歴史観は自虐的過ぎるように思う。
渡辺先生は韓国併合にしても中国への介入にしても必然性があったと見ている。
この一連の説明はとても説得力のあるものだったので読んでみる価値がある。
(ご専門は開発経済学なのに歴史にも精通しているとは、一体どれほど博学なのかと、それはそれで驚愕したり。)
自分が今ここに青年海外協力隊として来ていることを感慨深く思う
拓殖大学は日本近代史の必要性に応じて、アジアや大洋州各国の語学や文化、政治経済に精通した人材を多々輩出してきた。
一方、日本は第一次世界大戦直後から太平洋戦争終戦までにかけて南洋諸島にも領土を広げていた。
そこで私が気になったのは「南洋諸島にも拓殖大学の卒業生が来ていたのだろうか」ということだ。
それについて本文中の表によると、大正8年には17人、大正11年には18人、昭和4年には17人の卒業生が南洋に赴任していたことが分かった。
もちろん南洋と言っても範囲は広く、必ずしも私が今いるチュークに来ていたとは限らないが、それでも当時の卒業生がこちらに来ていたという事実には感じるものがある。
それはおそらく、拓殖大学国際開発学部という大学の理念をそのまま体現したような学部で学んだことによる誇りかもしれないし、あるいは先達からバトンを渡されたかのような錯覚かもしれない。
そんな歴史のダイナミズムが私をここに連れてきたのだとしたら気が引き締まるというものだ。
「地の塩」とやらに自分もなってやろうじゃないか。
・・・後の祭りだが、活動の序盤で読むべきだったな。
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